Podcast:エピソード-3 「第2回三題ばなし」を振り返って

そんなわけで、前回のPodcastの振り返りです。

前半の体罰の話にだいぶ熱が入っているように感じました。

振り返り

複雑な仕組みを単純化することが予防につながる、というアプローチ。
手順が複雑だったり注意すべき点が増えると、インプットに対するアウトプットが不安定になりやすくなり、それは複雑系と考えることができる。
複雑系の一つ一つを適正化しても、全体としての不安定さは変わらない。
体罰は、インプットに対するアウトプットは不安定な手段と考えられる。
それはつまり、体罰は複雑系である可能性を十分考慮する必要がある、と言える。

手段は、結果に対するアプローチに過ぎない。
体罰に対して考えれば、体罰を行うことは、望む結果に対する手段であって、そのものが目的ではない。
また、体罰が複雑系ではない、という前提だったとして、望む結果にダイレクトにアクセスできると仮定しても、その望む結果が正しいことを誰が証明できるのか。
理想の人類の姿が確立されているのであれば、それが望む結果と考えることができる。
しかし、理想の人類の姿が確立されていない以上、体罰が非常に有効な手段だったとしても、体罰によって矯正された結果が、果たして望む結果になると言えるのか。
こうした部分から、体罰の方法としての危うさの前に、結果に対する教育の立ち位置は、どのような状態が適切かという議論が先に立つ必要がある。

では、手段としての体罰に価値はないか、という議論に対しては「理不尽」を学ぶという点について、非常に有用な手段であると言える。
およそ、世界は理不尽にあふれている。
理不尽さに、早く気付くために体罰の有用性は正当化されるのか、というと少し論理が飛躍しているようにも感じる。

また、教えることで本人が自ら気づく機会を奪ってしまう、ということも考えられる。
ただ、教えないことでもしかしたら気づかないままになってしまうかもしれない、というジレンマと隣り合わせになる。

教育における体罰は、政治における戦争と同じなのではないか、と思う。
正当化することもできるが、常に正しいとは言えない。
そう考えれば、学級崩壊はテロと考えることもできるかもしれない。
そういう意味で、抑止力としての体罰は、核兵器に似ているのかもしれない。
使うと非難される、という意味でも。

合コンについて
合コンの目的はそれぞれだけど、出会いを得るため、と仮定したとき、出会いを求めない方が、合コンを楽しめる、というジレンマはとても興味深い。

人間の生物的な反応として、お金を払って空腹で終える、というのは耐えられないのかもしれない。
お腹いっぱいで苦しくなって、そしておいしいというのは、なかなかない。
適度に満腹だから、おいしいと言えるのではないか。
料理の質に対する満足と、量に対する満足の和は、一定なのではないかな、と思った。
量に対する満足が十分であれば、質はある程度低くても許されるのではないか。
そして、いずれの満足にも一定の閾値が存在し、それを割ると評価がさがるのかな、と。

高級な店で、バイキングをするのは、店に入って想像以上の価格がついていることを避けられるというメリットがある。
また、満足度の和が一定であれば、質がある程度下がっても許されるのではないか、と見込むこともできる。

サーバーの水が水道水よりも安全でない、というのは暴論だったと思う。
その理屈では、市販の飲み物も安全でないと言える。

故郷納税は、新しい商品、新しい価値を知るきっかけになる。
でも、地元の人がもらえないのは、少しさみしいな。

まとめ

体罰とか、教育の話は、結構熱っぽく語るものだな、と思った。
また、何かに執着すると、執着している何かを得ることは難しいのかな、と感じた。

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