新しいゲーム脳の功罪

essay

ゲーム脳とは何か?

森は、独自開発の簡易脳波計でゲーム中の脳波を測定する実験によって、「テレビゲーム携帯電話メール入力・パソコンといった電子機器の操作が人間のに与える悪影響」を見出したと主張している。ここでいう「脳に与える悪影響」とされるものを象徴的な言葉で表現したのが「ゲーム脳」である。

引用元:ゲーム脳 – Wikipedia

従来のゲーム脳はこれだが、今回考える「新しいゲーム脳」はこれではない。

今回の結果は、暴力的な内容が含まれる可能性の高いヴィデオゲームを子どものときにプレイすることと、青年期後半に行為障害を示すリスクが増えることの相関は弱いことを示している

引用元:暴力的なゲームで遊んだ子どもは「攻撃的」になるのか:英国の長期調査 | WIRED.jp

これや

こうした人々の脳は、いくつかの部分においてお互いが高度に結合しており、新しい刺激に対してより素早く反応できるとともに、情報をより正確に処理できるのだという。

引用元:https://wired.jp/2016/01/12/video-game-addiction/


これに近い。

普通の人は、暴力的なゲームをして、暴力的にはならない。
暴力的なゲームをして暴力的になるのは、もともとその素因がある人だ。
ゲームが与える影響は、ヒューリスティックや認知バイアスに及ぶ。

視点を変えて、ゲーム以外の娯楽はヒューリスティックや認知バイアスに影響を与えないか。

例えばマンガはどうか。
フィクションのキャラクタになってしまうが、佐久間は完全にジャンプ脳だ。

佐久間ほどではなくても、人々にマンガ脳はある。
自分が主人公であるように感じたり、出ないと思っていてもかめはめ波の練習をしたりする。
では、かめはめ波の練習をしたら、脳に深刻なダメージを受けたと感じるだろうか?
答えはノーだ。

少女マンガに慣れ親しんだ人の中には、重度の恋愛脳になっている人もいる。
いつか白馬の王子様が、という感覚。

映像作品もそうだ。
ホラー映画のあとには、暗いところに何かいる感じがする。
AV(今はセクシービデオというのかもしれないが)を見て、男女関係に誤った理解を持っている人もいる。

小説だって同じだ。
太宰好きや、三島由紀夫好きの発言は偏りが大きい(偏見です)
ヤン・ウェンリーかっこいいな、と思って紅茶にブランデーを垂らしてみる
作者やキャラクタに同化して、同じようになろうとする。

何もおかしなことはない。
ゲームだけが、ヒューリスティックや認知バイアスに影響を与えるわけではない。

だが、ゲームは他の娯楽と決定的に違うところがある。
双方向性だ。

小説やマンガ、映画は自発的に読んだり見たりする。
解釈は委ねられる。
作品から、自分の解釈に対するフィードバックを受けることはない。
同じ作品に触れた他者からフィードバックの指摘をうけることがあっても、だ。

ゲームは違う。
アクションゲームなら、ダッシュやジャンプのタイミングが正しいかったか、すぐにフィードバックされる。
どんな複雑なゲームも、少なくともクリアまで行けばフィードバックされる。
FPSは、同じ動きをすれば必ず同じ結果が得られるわけではないが、傾向が示される。
そういう意味で現実に近い。
恋愛ゲームで得たフィードバックを実生活に応用する人はあまりいない。
恋愛ゲームという枠の中で、ゲームを制作した人の世界の中にいることを自覚しているから。
そうした意味で、オールドな恋愛ゲームは小説に近い。
または、サウンドノベルも同様の意味で小説に近い。
でも、FPSは違う。
常に同じフィードバックは返ってこない。
それだけに、繰り返すことで正しい動きを覚えていく。
古くは格闘ゲームもそうだ。

正しいと考える動きを繰り返し、習慣になって、さらに応用する。
オープンワールドゲームも同じだ。
オールドなRPGはオールドな恋愛ゲームと同じで、製作者の枠の中を追体験していた。
現代のオープンワールドRPGは、箱庭を与えられ、その中でフィードバックを受ける。
クライム系のオープンワールドゲームをすることで、犯罪者が増えることはないだろう。

しかし、犯罪的な発想は生まれやすくなるかもしれない。
見方を変えれば、防犯意識が高まると言えるだろう。

そして、こうした表面上の影響ではない、大きな影響があると考えている。

古いゲームは、クリアできないゲームがあった。
また、簡単すぎるゲームもあった。
つまり、古いゲームがクリアできるかどうかは、製作者側の問題で、プレイヤー側の問題ではなかった。
現代のゲームは、ほぼクリアができる。
クリアできないゲームは、プレイヤー側の問題になる。
クリアできるかどうかわからないゲームなのか、必ずクリアできるゲームなのかは、プレイヤーの感覚は大きく異なる。
必ずクリアできるのであれば、腕を磨いたり、難易度を下げたり、攻略情報を検索したりする。
また、必ずクリアできる体験を重ねれば、やればできると感じられるようになる。
また、複数のゲームを行うことで、類似するゲームは本質を理解しやすくなるし、全く異なるゲームは新しいルールに対応する力を育むだろう。

サバイバルゲームや災害の対策に利用できるのでは無いか。
サバイバルの正しい動きが身につく。
また、サバイバル時に適切な動きをすれば生き残れると信じられるようになる。
極限状態で死ぬかもしれない、と思うより、生き残れると信じられることは大きいだろう。

では、新しいゲーム脳はいいことしかないのか。
残念だがそうではない。

新しいゲーム脳は、前提として答えが存在すると思い込む。
うまく行かないときは、答えがあるのに、答えが見つけられていないと考えてしまう。
答えを作る、問題文を変えるという発想がなくなり、答えを探すことになってしまう。
これではイノベーションを起こすことはできない。

新しいゲーム脳を持つとどうなるか。
与えられたルールを素早く把握し、勝利条件を理解し、最短距離をとって効率良くすすめることができる。
そのため、おそらく法律家や経理、プログラミングは向いているだろう。
デザイナーはできるだろうが、アーティストにはなれない。
コミュニケーションも、テクニカルなものは得意だろう。
引き出しにない人に出会っても、うまく相手はできるようになるだろう。
でも、共感力は育たないだろう。

そして、もっとも重要なのは、新しいゲーム脳は道具になるということだろう。
人格を新しいゲーム脳に支配される必要はない。
数学や、ピアノの演奏と同様、スキルの一つ、嗜みにすることが重要だろう。

それはそれとして、VRゲームである。
これが、人間の認知にどのような影響を与えるのか、興味しかない。

ほしい。

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